2011.12.26 富和澄子葬儀説教

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富和澄子 葬儀説教「愛の讃歌」コリント二 13:1~13

富和澄子姉 葬儀

2011年12月26日(月)

日本キリスト改革派灘教会        

牧師 西 牧夫


葬儀説教「愛の讃歌」(コリントの使徒への手紙 13章1~13節)


12:31

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。


13:1

たとえ、人々の異言、天使達の異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

13:2

たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、無に等しい。

13:3

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

13:4

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。

13:5

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。

13:6

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

13:7

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

13:8

愛は決して滅びない。予言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

13:9

わたしたちの知識は一部分、予言も一部分だから。

13:10

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

13:11

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

13:12

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる。

13:13

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、

愛である。


はじめに

 入院しておられた富和澄子姉は、2011年12月24日(土) 午後5時18分、妹の廸子さんに見守られながら、平安の内に静かに息を引き取られました。クリスマス・イブの夕べ、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)天使の讃美に導かれるようにして、85年に亘る地上の旅路を歩み抜かれ、天の御国へと凱旋して行かれました。


1.闘病生活

 昨年の2010年(平成22年、84歳)3月15日に入院され、胆管のパイプをつける手術を受けられました(六甲アイランド病院)。4月6日に無事退院され、5月2日に礼拝復帰。今年の2月17日、検査のため再入院。3月22日に退院して自宅療養を続けられます。礼拝には6月19日(日)久しぶりに出席できます。しかし、11月22日に再入院され、胆管のパイプをつける内視鏡の手術。その後の経過た芳しくなく、12月12日(月)に廸子さんからお電話をいただき、お見舞いさせていただきました。12月20(火)には病室で、澄子姉と廸子さんと牧師夫妻と、賛美歌を歌って小さなクリスマスを祝いました。そこにはいつも、妹の廸子さんが、最善を尽くして、澄子姉に寄り添い、多くの方々の祈りと支えに取り囲まれながら、共に生きる一日一日を大切にしておられる姉妹のお姿がありました。そして、富和澄子姉が本当にお好きであられたクリスマス・イブの日に、

天の御国に召されたのでした。


2.富和澄子姉の生涯の歩み

 富和澄子姉は1926年(大正15年 昭和元年)7月28日、父、富和雅夫氏と母佳代氏との間の六人兄弟の次女として芦屋市でお生まれになりました。ご尊父のお仕事(醸造業)の関係で、1929年(昭和4年、3歳)の時、ご家族5人で韓国慶尚南道(けいしょうなんどう)馬山(まさん)に転居されます。馬山小学校、馬山高等女学校と、この地で人生の土台を造る大切な時期を過ごされました。高等女学校を卒業された後、1944年(昭和19年、18歳)に韓国京畿道(けいきどう)仁川に転居され、1945年(昭和20年、19歳)で敗戦を迎えます。

 敗戦の年の11月29日から12月3日にかけて、仁川から芦屋に家族10人で引き揚げて来られますが、その後、愛媛県八幡浜市、千葉県柏市、埼玉県加須(かぞ)市、兵庫県西宮市、そして神戸市へと次々転居を繰り返されます。その中で、1948年(昭和22年、21歳)頃からこの灘教会に来られて求道を始め(「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」マタイ6:33)1952年(昭和27年、26歳)8月10日にキリスト教洗礼を受けられます。(司式:岡田稔牧師、横山節子姉と共に岡田牧師時代の最後の受洗者の一人)。

 敗戦からこの1955年までの日本の社会全体が激動する中にあった富和澄子姉の十年間に、姉妹御自身のそれからの人生の方向性を決定づける二つの根本的な出会いがあったと思います。ひとつは、イエス・キリストとの出会い。もう一つは、絵画です。『信仰と絵画』この二つの出会いによって、富和澄子姉のその後の人生の歩みが、豊かに、深く、開かれて行ったのではないでしょうか。


3.ライフワークとしての児童美術教室「どろんこあーと」

 富和姉は戦後の混乱期、20代前半には結核を患っておられたそうですが、画家の鈴木清一氏の絵画教室に通い始められます。そして、子どもの表現と心理学を説いていた宮武辰夫氏の児童造形論に共感し、その児童絵画教室のアシスタントや、知的障害を持つ子どもたちの絵の指導のお手伝いをするようになります。さらに、教えるための資格を取得する必要から武庫川短期大学の二部で学ばれ、1955年(昭和30年 29歳)卒業。

 この1955年(昭和30年 29歳)に、宮武辰夫氏の児童造形論に基づく指導方法をとりいれた児童造形教室「どろんこあーと」を御自身で開かれます。当初は決まった場所がなく、移動教室だったそうですが、その後西宮市に教室を構え、1960年(昭和35年 34歳)には、教室を神戸市東灘区に移転します。35年間、その場所で教室を続けられますが、1995年(平成7年 69歳)、阪神大震災で教室が被災し、全壊で建物取り壊しとなります。その苦しみを乗り越えて、1997年(平成9年 71歳)、御影の五六会館にて教室を再開。2005年(平成17年 79歳)に教室最後の卒業生を送り出されます。1955年(昭和30年 29歳)から2005年(平成17年 79歳)までの、実に50年間に亘る児童美術教室「どろんこあーと」のお働き。どれほど沢山の子どもたちがその親御さんも含めて、この教室に迎え入れられ、送り出されたことでしょうか。幼児から小学校6年生に至る各クラスの週一回の「どろんこあーと」の教室から、どれほど豊かな実りがこれまでもたらされて来たことでしょうか。そこでは、子どもたちの教室ばかりでえはなんく、お母様方の悩み相談のための教室も生まれ、それが「聖書を読む会」となって展開していったとお聞きしています。


4.目指していた人間像

 富和澄子姉はこの「児童美術」の目標を、次のように簡潔に述べています。「すべての子どもは神様から各々異なった『賜物』を与えられています。ですから、子どもたちは自分自身を表現するために『自由』でなければなりません。私は、子どもの上に押しつけることはしません。私のしなければならないことは、子どもたちが充分に自己表現することが出来るように、『機会』を与えてあげることです。子どもが各々の個性に応じて創造性の溢れた表現を楽しむことが『児童美術』の目標です」(「名刺の裏書き」から)。

 さらにこうも書いておられます。「即ち美術は子どもの人間形成の一つの手段であって、あそびは学習です。その中から子どもは豊かな創造性、感受性、社会性を伸ばします。指導者のすることは、技術を教えるのではなく、子どもたちが神様から与えられている賜物を引き出すことです。子どもたちは一人一人の力で自由にそれを発見します。また集団活動を通じて仲間といっしょに秩序に従うことを体験します。」(「入会案内文書」から)

 「『どろんこあーと』の目指す人間像は、いつもトップを走る優等生ではなく、自分らしく生きる人です。それは『いつも新しい気持ちで、楽しく、与えられた力を出すように努力し、機械ではなく、人間の心で感じ、自分の意志で判断して行動する人』です。その根底にあるものは、『美しいものを発見し、愛し、喜び、創り出す』、『人の生命も、自然の生命も、物の生命も大切にする』、『すべての生命の創造主である神を畏れ、喜び、敬い、従う』ことです」(「入会案文書」から)。


5.人間限界への深い洞察

 富和澄子姉の深い祈りを見る思いです。彼女の人生を貫いた、人が真の「人間」になることへの高い憧れと希求に満ちた祈りです。女学校時代から20代にかけて経験された戦争のもたらした人間と社会の矛盾と限界。その悲惨な経験は「人間と社会にとって、そして子どもの真の人間への成長にとって、何を本当に大切にしなければならないのか」、どの問いを御自身の内に深めていかれたのではないでしょうか。

 馬山高等女学校時代は、韓国の友人たちと出会い、豊かな友情が与えられます。それは戦争を越えて生涯に亘って続く友情です。また、敗戦時には、富和ご一家は周りの韓国の方々に守られ助けられたとお聞きしております。しかし、富和澄子姉は、戦時中の歴史を知るにつれ、日本の犯した過去の侵略の罪責について、自らも悩むようになります。馬山高等女学校時代の1939年(昭和14年 13歳)、占領政府が韓国の方々に対して創氏改名を強制した出来事を思い出し、当時はそれが相手にとってどれ程の痛みと屈辱であったかを想像することができなかったことを、深い悲しみをもって告白しておられました。人間としての友情の尊さと共に、歴史を生きる中で経験する人間と社会と国家の矛盾とその限界を、真っ直ぐに見つめる澄子姉妹の深い眼差しがありました。

 昨晩の納棺式で、富和澄子姉のことを「子どもの心を生きておられる方」と表現致しました。その「子どもの心」は、在るということに無条件に信頼し、与えられている全ての恵みを心から喜び、愛し、すべてに開かれた心です。この「子どもの心」は単純ですが深い。その喜びの心は、その無防備さの故に、同時に深い悲しみを知っています。澄子姉はその波乱に満ちた人生の中で、本当に悲しむことが出来るからこそ、本当に喜ぶことができる「子どもの心」を御自身が育まれ続けて来られたのだと思います。


6.「愛の讃歌」

 イエス・キリストに出会ったパウロは、「愛」について教えます。富和姉の愛称聖句であった第一コリント13章の前の12章では、神は色々な人に賜物(特別な恵み)をお与え下さると語り、最後にこう言います。「12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」この「最高の道」が、富和姉が最も愛された聖句の13章で語られる「愛の道」です。愛は様々な賜物を超える道です。人は与えることにより、愛する本人の愛は減るどころか、益々豊かにされ、人生の道を前に歩んで行けるのです。そこで、パウロは、どんなに素晴らしい賜物を持っていても、どんなに素晴らしい事をしても、愛を持たなければ「騒がしいどら、やかましいシンバル」、「無に等しい」、「まったく無益だ」と、驚くべきことを語ります。

 そして愛の本質をこのように語ります。「愛は忍耐強い」。愛する人は、忍耐強く、すべてを包み込むような広い心をもって、人を喜んで受け入れます。「愛は情け深い」。愛する人は相手を宝物のように大切にします。「愛は妬まない」。愛する人は、他人と自分を較べず、相手を喜び感謝する心を持っています。「愛は自慢しない」。愛する人は自分のしていることを見せびらかさず、ごく自然に行います。「愛は高ぶらない」。謙虚な人こそ愛することができます。「愛は礼を失しない」。愛する人は相手の気持ちを尊敬し、あたたかく見守ります。

 つまり、「愛する人」は、自己を中心として生きるのではなく、中心を神の中に置き、さらにその中心を神が愛しておられる共に生きる隣人の中に置くようになるのです。パウロは、この愛の本質を「愛は自分の利益を求めない」とまとめます。「愛する人」は「いらだたず、恨みを抱かず13:6不義を喜ばない」。反対に「愛する人」は、「真実を喜び、13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と語ります。


7.イエス・キリストとの出会い

 人は愚かにも、永遠でないものを最高の価値として、愛を犠牲にしてでも追求します。この人間の過ちと罪に塗られたこの世界と歴史。誰にも赦せない罪があります。そして、誰にも取り除くことができない死が待っています。

 しかし聖書は語ります。「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。愛を信じられない人間の罪によって、十字架につけられ、殺された神の御子イエス・キリストを、父なる神は、死の「深き闇の淵」から、復活の新しい命へと引き上げ、神の愛の絶対的勝利を現して下さったのです。決して死が終わりではありません。それは、人間的な終わりが終わるのです。つまり、愛の終わりである罪が、命の終わりである死が終わるのです。


8.永遠に残る最も大いなる「愛」

 富和姉は、救い主イエス・キリストと出会い、この「信仰と希望と愛」に生かされ、そして今、天に召され、神と「顔と顔を合わせて」永遠の愛の交わりの喜びの中に入られています。これが、苦しみを貫く大いなる喜び、富和澄子姉が最後に残してくださった、いつまでも永遠に残る「信ずること・望むこと・愛すること」です。その中で最も大いなるもの。それは「愛」です。

 一人一人の子どもたちの賜物を引き出して来られた富和姉が本当に大切にして来られたもの。富和姉がご家族、友人、そして私たちに与えて下さったもの。それは「神の永遠の愛」ではないでしょうか。